家族全般についての質問と答え

テレビに映る暴力や、退廃について

投稿者: Administrator on . Posted in 家族全般について

星を無効星を無効星を無効星を無効星を無効
 

Q テレビに映る暴力や、退廃について私たちができることはないのでしょうか。

A  私たちは、自分で考えている以上にテレビに対する影響力を持っているのです。ある調査によれば、テレビ局が受け取る一通の手紙は、同じように感じたが、 手紙を書こうとはしなかった他の4万人の視聴者を代表していると推測されるそうです。しかしながら、誰に手紙を書くかを知ることは重要です。

私はかつて大手ネットワーク・テレビのディレクター、プロデューサー、また重役たちに手紙を書いたことがありますが、あまり効果がなかったと感じました。
私が発見したのは、お金を出しているスポンサーに訴えることの方がより効果的ということです。彼らは我々視聴者の意見には敏感です。なぜなら、彼らがあるプログラムを支持する理由は、スポンサーの製品に我々視聴者を引きつけようとすることだからです。

ブラウン管の中に流れていることに私たちは賛成できないことを知らせることによって、スポンサーにプレッシャーをかけることができますし、そうすべきなのです。


From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

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良くある質問と答え

  • Q 妻は、全てが整った状況でないとセックスに応じません。我々夫婦は、単純に互いの体を楽しみあうことができないのです。ベッドに入る前から、時間をかけて妻に話しかけなければ、興味を示さないのです。他の女性たちもそうなのでしょうか。

    A 大部分の女性はそうです。女性にとって、セックスとは単に肉体だけの経験ではありません。ロマンチックな要素が不可欠です。妻が、夫に対してある親密さを その時に感じなければ、また夫から人間として尊敬されていると感じなければ、夫とのセックスを楽しむことはできないかもしれません。ロマンチックな親密さ を感じずに性行為をする時、妻はしばしば「使われた」と感じます。そして、奥さんのように夫を拒否するか、もしくはうらみつつ、しぶしぶ夫に応じるので す。ある意味で、そうした時、夫は自分を喜ばせるために彼女の体を利用したのです。
    逆に男は、不機嫌で帰宅し、自室やガレージで黙々と働き、11 時のニュースを黙って見、最後にベッドにもぐり込んで、妻を求めることもできるのです。その晩、妻と優しく語り合う時間がなかったからといって、彼の性欲 が著しくそがれるということはありません。妻が、肌にまとわりつくようなナイトガウンを着てベッドに向かうのを見ただけで、夫はもう熱が入ってしまうので す。
    しかし、妻の方はそう簡単にはいきません。一日中待っていたのに、夫が帰宅しても挨拶さえまともにしてくれなかったので、彼女は無視されたと 感じ傷つきました。それ以後も何かに没頭して、こちらを向いてくれないのですっかり興が冷めたのです。ですから、夜遅くなって夫の要求に答えることはでき ないと感じるのです。


    ドクター ジェームス・ドブソンのQ&Aから

  • 聖書の語る神様は、天地の全てを造り、私たちに命を与え、人生を導き、そして命を取り去られる方です。その神様が、独り子であるイエス・キリストを私たち の救いのためにこの世に遣わして下さいました。イエス・キリストは「独り子なる神」です。キリスト教はイエス・キリストが始めた宗教ではありません。イエ スをキリスト(救い主)と信じる宗教です。キリストは「開祖」ではなく、信仰の対象である神なのです。天地の創造主でありキリストの父である神と、独り子 なる神キリストと、そして聖霊なる神の三者であり、同時に一人の神である「三位一体の神」を私たちは信じています。
  • Q. 教会は楽しいところですか?

    A. もし世の中の楽しみのようなことを期待されるならば、場違いだと感じるかも知れません。教会には、年齢や性別、国籍を越えて、いろいろな方々が来られています。神による不思議な平安や暖かさが満ちていま すので、何回か来られるならば、この世の中には無い、素晴らしい喜びが神によって与えられることに気づくでしょう。その時には、教会に来ることが何よりも 楽しくなります。考えていないで、一度勇気を出して足を運んでください。
  • Q. 教会には、なぜ十字架があるの?

    A. ローマ時代、十字架刑というのは、もっとも恐 ろしい犯罪者への刑罰の方法でした。イエス・キリストは何の罪も犯されませんでしたが、約2000年前に 2人の強盗と一緒に十字架につけられました。それは、「私たちの罪の身代わり」であった、と聖書は語っています。十字架上でイエス・キリストが流された血 潮によって、私たちの罪はゆるされ、聖なる神の前で「義」とされるのです。
    そのことをいつも心に覚えて忘れないために、多くの教会には十字架がシンボルとして付けられていますが、十字架に手を合わせて拝んだりするためではありません。