家族全般についての質問と答え

財産を次世代に残すことについて

投稿者: Administrator on . Posted in 家族全般について

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Q 妻も私も引退の年に近づいています。私たちは経済的には大変祝福されてきました。いくつかの大きな会社とかなりの不動産を三人の子どもたちに残すことにな ります。多額の財産を次世代に残すことについてはどうお考えになりますか。気をつけるべき点は何でしょうか。

A この話についての私の意見は、耳ざわりかも知れませんが、自分が観察したところと私が固く信じるところを申し上げる以外にありません。端的に言って、労さずに大金を手にすることはとても危険なことです。

「裕 福な子供たち」と題した社会学上の研究結果がしばらく前に発表されましたが、私の懸念を裏書きするものでした。著者たちは、「多額の信託財産は通常相続者 の破滅の元である」という結論を得ました。引用された事例は説得力のあるものでした。人類史もお金の危険について証しています。男も女も金をむさぼり、殺 人を犯し、命を落としまた「永遠の命」を失いました。お金は友情を引き裂き、おごる者や力ある者は倒れました。そして数え切れぬ家庭が無残に崩壊しまし た。

またお金ほど兄弟の仲を引き裂くものもありません。莫大な財産を相続することにより家族の中に緊張と不調和が生まれる確率は高まります。お子さんたちはあなたが残された会社をめぐって争い、決定権を委ねられた人を恨むでしょう。

責 任ある生活をする意欲を失い、お酒やギャンブルなどの中毒症状に陥る人も出ます。このような否定的結果にはもちろん例外もあり、富と権力を上手に取り扱う 人々もいます。しかし、これはよく行っても困難な仕事で、最高度の成熟と自制心とが要求されます。「私が子孫に残す多大な財産は、愛する者たちに及ぼす危 険に見合っているだろうか」と自問すべきです。

あなたご自身が成功するために勤勉に働き、節約し、貯蓄し、築き、額に汗して生産に従事したという 苦労を、お子さん方には味わわせたくないのかどうかをまず決めなければなりません。彼らが自分を鍛練し勤勉に働くという必要を感じず、出来合いの事業を引 き継いでその処置を誤り、乱費してしまうとしたらどうでしょう。

私の見解が人気のあるものではないことは承知しています。人々が懸命に働く理由の 一つは、子どもたちに苦労させたくないからです。子どもを愛する余り、安楽な人生を歩ませようとします。それに、一生をつぎ込んで発展させたビジネスと築 いた富を売り飛ばして自分は消え去るというのは、どんな親にとっても愉快な選択ではないでしょう。もちろん、自分の財産をどうするかは、親が自分で決めね ばなりません。私にできるのは、ただ自分の見た通りの事実をお知らせすることです。

私の経験では、富の相続は家族関係、自制心、信仰心また責任ある社会人としての生き方を危うくする傾向があるということです。もし相続させるなら十分に注意をし、何年もかけて準備し、祈り深くなすべきです。

From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

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良くある質問と答え

  • 家族Q 安楽死の方向への動きに異論があるのはなぜでしょう。病気の老人が尊厳をもった死を選ぼうとすることは、誰の迷惑にもならないはずです。質の伴った命がないわけですから、静かに自殺させてあげたらどうかと思うのですが。

    A  現代の文化的背景の中で、ご質問は大変重要なものですので、しばらく時間を割いてお答えしたいと思います。

    苦しく緩慢な死を迎える老人たちがいることを知っている私たちにとって、ご質問にあるような考えは大変魅力的なものではあります。静かに眠らせ、苦しみを逃れさせてあげる方が確かに人間的なことと思えます。

    し かし、その方向に進むなら、多くの人々が言語に絶する苦しみを味わい、社会が混乱に陥ることは火を見るよりも明らかです。人命を奪うという道徳的な側面も さることながら、安楽死はその性格上、なしくずしになることが避けられません。いったん、おりから這いだした蛇を捕まえることはできません。

    詳しく説明しましょう。治癒の見込みのない老人が、医師の助けによって自殺することが合法化されたとします。その後は、病気も重度の障害もない人の自殺に対して、何が歯止めになるのでしょうか。
    健康な老人であっても、もう生きるのに疲れたという人はどうでしょう。彼の自殺を許すのにかかりつけの医師からの許可証が本当に必要でしょうか。
    健康な老人が死を選べるとしたら、次にはそれほど高齢でない人の場合はどうでしょう。
    五十代の人は身投げをしてよいでしょうか。よくないとしたらその理由はなんでしょう。
    四十代の更年期の女性や、中年の多くのストレスを抱えた男性はどうでしょう。

    少し考えて見ると、自殺という決定的な事柄に年齢は何の関係もないことが分かります。うつ状態ではあっても健康な二十歳の学生が、治癒の見込みのない患者と同じように「尊厳ある死」を選ぶ権利があるということになってしまいます。

    もし安楽死が一部の人に合法化されたら、全面的合法化へのレールが敷かれたも同然です。年齢も、健康的要素も、クォリティ・オブ・ライフ(質の伴ったいのち)も条件とはなりえません。
    安楽死を積極的に押し進めているヘムロック協会という団体は、その事実をよく知っています。彼らは、全ての人には「死ぬ権利」があると強く主張しています。

    私 たちが今、まったく健全な胎児を切り刻んでごみ袋に捨てているなどと、1950年に誰が予想したでしょうか。四千万近い、いたいけな子供たちを母の胎から 引き裂くなどということを、誰が想像できたでしょう。最も弱い者たちにその様な非道を行った私たちが、どのようなグループの人たちをも殺すことができない と信じることができるでしょうか。

    歴史的に言って、安楽死という怪獣を招き入れてしまった国々は、大量虐殺という悪夢を実現してしまった のです。それこそ、ナチス・ドイツに起こったことです。そこではまず始めに病人と老人とを殺し、次に精神障害者、知的障害者、そして生まれつきの障害児を 殺害したのです。そこから「望ましくない者たち」すなわちユダヤ人、ポーランド人、ジプシー、生産活動に従事できない者、政治犯、同性愛者その他の人々を 殺害するまではほんの一歩でした。安楽死は絶滅収容所への最後の小さなステップでした。
    もしこのような狂気の虐殺が起こらなくても、「死ぬ権利」の合法化は毎年の自殺数を劇的に増すことは確実です。

    一 人一人の死は、残された者たちにとって、計り知れない悲嘆と罪責感と悲しみとを残します。死ぬ人にとって、自殺は安易な逃げ道に見えるかもしれませんが、 愛する者や多くの子供たちを含む親戚にとっては恐らく最も苦痛に満ちた経験です。どの観点から見ても引き出せる結論は同じです。しかし、カリフォルニア州 の第九連邦巡回控訴院は、家族計画協会対ケーシーの連邦最高裁の判決を引用しながら、安楽死を米国で合法化したのです。「神よ、われらを助けたまえ。」


    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • 「キリストのからだとは、教会のことです」(コロサイ1:25) とありますように、教会はからだにたとえられます。では教会の姿を次の聖句を読んで考えてみましょう。

    12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともでき ません。12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうに なりますが、12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(1コリント12:14-27)この聖句は人間のからだにたとえて教会の姿を言い 表しています。

    つまり、教会員のひとりひとりが重要な器官の役目を果たしており、どんなに小さな役目であっても、教会には必要な役目なの です。世の中では、偉い人や重要なポストに就いている人を重視します。しかし、「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなく てはならないものなのです」 と書かれてあるように、教会においては重要でないと思われる人こそ必要なのです。そして、キリストのからだは、キリストにあって、同じ考え方、同じ心の持 ち方、同じ態度を持っているのです。さらに、重要な事は「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての 部分がともに喜ぶのです」と書かれているように、苦しみと喜びを分かち合う人々の集まりだという事です。これは、イエス自身によって次の様に教えられまし た。

    13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合い なさい。13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ 13:34-35)

    イエスの愛が教会の人々の中に宿ります。 それゆえにクリスチャンはイエスが愛したように愛しなさいという命令を受けるのです。お互いに愛するとは、お互いに「深い同情心、慈愛、慈愛、謙遜、柔 和、寛容を身に着け、互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合い、主が赦してくださったように、赦しあう」ことです (コロサイ3:12-13)
  • キリスト教は二千年の歴史の中で、いくつかの流れに枝分かれしてきました。それを「教派」と言います。プロテスタントは、16世紀の「宗教改革」におい て、当時のローマ・カトリック教会から分かれた流れです。プロテスタントの中にもさらにいろいろな教派があります。教派の違いは、礼拝の仕方、教会の運営 の仕方、信仰における強調点の違いですが、キリスト教会の信仰の根本的規範は聖書であり、それに基づく信仰を言い表した古代の「信条」です。そこにおいて は基本的に一致しているので、このごろは、カトリックとプロテスタントが共同で訳した「新共同訳聖書」が生まれるなど、協力関係も進みつつあります。
  • しつけQ. 私の友人の子どもたちのことですが、今まで見たこともないようなしつけの悪さで、そばにいられると話もできません。なんとかしつけの手助けをしたいのですが、どうしたら友人を傷つけずに良いアドバイスができるでしょうか。

    A.  誰かの行動や性格について傷や欠点を指摘するには、ヤマアラシが愛しあうようにすべきです。すなわち相手を傷つけないように、細心の注意を払うのです。 そうでないと、友人を失うことになります。まして、親としての間違いを指摘することは、さらに危険が伴います。全くの善意から、相手の子どものことを考え て注意したとしても、注意した方が反対にとばっちりを受けるのがおちです。
    ですから、いかに必要を感じたとしても、私は人様の子どもについて頼まれもしないアドバイスはしないようにしています。どうしても聞き心地のよくないことを相手に対して言わなければならないとしたら、まず彼女との友情を築くための時間をとる努力をすることを勧めます。
    注意深く信頼関係を築いたあとで初めて、あなたはやさしくアドバイスする権利を手にすることができます。このやり方に近道はありません。


    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A