クリスチャン信仰についての質問と答え

イエスについて、どうすれば理解を得る?

投稿者: Administrator on . Posted in クリスチャンの信仰について

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Q. イエス・キリストとはどのような方ですか。どうすれば知ることができますか。

A.  イエスは真実に人間となった神の子、そしてわたしたちの主キリストです。 それは聖書全巻を通して、神さまからわたしたちに証言されています。この方を知るには、信仰という神さまからの恵みに依らなければなりません。神さまは聖書を用いて、礼拝において、言葉を語り、わたしたちはこの方を知るのです。 人間の能力では決して知ることが出来ない人類最大の秘義です。

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良くある質問と答え

  • 子育てQ. 博士ご自身、父親としての最大のチャレンジは何でしたか。また、そこから何を学ばれましたか。

    A. 子どもの健康を保ち、教育を受けさせ、自分のことを自分でできるようにさせ、神と人とを愛するように育てることは、人生で最大のチャレンジだと思います。 その複雑さと予測できないことが多いことは、宇宙飛行の技術以上のものがあると思います。そして、クリスチャンの親が家庭で教えようとしていることと、 ちょうど反対のことを社会が教えてしまうような時代には、親の仕事はいっそう困難です。私たちは決して完全な父また母であることを求められているわけでは ありません。私たちの過ちや失敗にもかかわらず、子どもたちは普通は善良な大人に育つのであり、親に自慢する権利はありません。
    もちろん私も父親として失敗をしました。同世代の多くのお父さん方と同様、私も仕事のプレッシャーと家族の必要とのバランスを取るのに苦労しました。私が家にいなかったわけではありませんが、その時間を十分取ることは大変でした。
    私 の最初の著書「思いきってしつけましょう」が出版されたのと、第二子ライアンが与えられたのは、たまたま同じ週でした。赤ちゃんのおかげで家中がてんてこ まいになるのは普通ですが、拙著に対する反響がそれに輪をかけました。当時私は、医学部の専任教授でしたが、何千通もの手紙とありとあらゆる種類のリクエ ストが洪水のように押し寄せました。突然の反響をどう処理したら良いか途方に暮れました。ある時など、木曜日の夜にニューヨークに飛び、三日間で17のテ レビ番組と記者会見をこなし、翌週の月曜の朝に帰宅したことを思い出します。目が回るような日々でした。私にとって、いつも暗闇の中の灯台のような役目を してくれていた父は、私の事情を知って手紙をくれましたが、それが大きなきっかけになりました。
    まず、父は私の成功を祝福してくれた後で、「この世でのどれ程の成功も、家庭での失敗を埋め合わせることはできないよ。」と警告してくれました。
    子 どもたちの精神面の幸せが私の最大の責任であり、子どもたちの信仰を築き上げるただひとつの方法は、信仰生活を目で見せ、あとはひざを折って祈ることであ るということを父は思い起こさせてくれました。私が持てるエネルギーを全て仕事に注いでいたとしたら、それはとてもできないことでした。
    父の貴重なアドバイスを決して忘れたことはありません。結局、私は大学の職を退き、現在のミニストリーを始めるように導かれ、自宅にいる時間を確保できるようになりました。
    ラジオ放送を始めて、講演依頼を引き受けることをあえてやめましたので、出歩くことが減りました。拙著の販売促進のための旅行や、その他長期間家族の顔を見られなくなる種類の責任を引き受けないようにしました。
    あの時代のことを思い起こすと、子どもたちとの関わりを優先する決断をしてよかったと思います。今、息子や娘とよい関係を持っているのは、彼らが父親を必要としていたあの時期に私が家族のための時間を作ったからだったと思うのです。
    こ の回答を読んでいるお父さんの中には、あの頃の私のような立場にいる方々が多くいらっしゃるでしょう。もしあなたがその一人であるなら、ぜひ家族を第一に していただきたいと申し上げたいのです。今あなたの足元にまといつくお子さんたちは、あっという間に大きくなってしまいます。今のチャンスをみすみす逃さ ないでください。
    その代価はどんな仕事の業績や成功にも代えられません。あなたが私の年齢になった時には、家族との関わりに勝るものは人生にないことを実感なさることでしょう。


    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A
  • 家族Q 学校を良くするために親は何ができますか。

    A  教育者ならたいていは、学校教育の目的を果たすためには親の協力が不可欠であることを承知しています。ただある人々は(幸い大部分ではありませんが)教育は専門家に任せて欲しいと、親を煙たがります。

    しかし、たじろいではいけません。親こそが、子どもの教育の最終責任を負うものであり、誰にもその責任を奪い取られてはなりません。教育者は、いわば従業員であり、税金で賄われ、教育委員会に責任を問われるのです。
    親が関わりを持ち、サポートする学校こそ良い学校です。

    以上を理解した上で、ぜひ学校を訪ねてみてください。教室内に計画性と互いへの尊敬としつけとが行き届いているででょうか。もしそうなら、担任と校長先生に電話して感謝のことばを伝えてはいかがでしょう。先生方も感謝されたら嬉しいものです。
    「私にも手伝えることがあれば言ってください。」と申し出るのです。風通しが悪いなら、黙っていないで行動するのです。他の親たちと話し合いなさい。積極的にPTAに参加してください。教科書を開いてみてください。

    繰り返します。親たちがよく動く時に、学校は一番よく機能するのです。


    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • Q 主人と私は、結婚前はどんなことでも、何時間でも話すことができたのに、結婚してみたら外食に出かけても何一つ話題がないのです。何がいけないのでしょうか。主人は何を考えているのか教えてくれないのです。

    A  多くのご夫婦が同じ様な経験をします。結婚前は絶え間なくおしゃべりしたのに、結婚後数年たつと話す話題がなくなるのです。

    プ ロポーズした後は、ある人々は自分の気持ちを正直にオープンに話すことに困難を感じます。この原則は、一般的に女性よりは男性に当てはまります。女の子た ちの方が、男の子たちよりも話す力において優れているという明白な調査結果があり、この違いは生涯変わりません。簡単に言うなら、女性は男性よりもよく しゃべるということです。

    通常、妻は自分の気持ちや考えを夫よりもずっと上手に表現し、夫の無口さにしばしばいらだちます。神は、女性に 一日50,000語を与え、夫には25,000語を与えたのかもしれません。夫が帰宅した時、彼は24,975語を使い果たしており、夕方にはうめくこと 位しかできません。夫がナイター中継にのめり込んでいる間、妻は残りの50,000語を使いたくて必死なのです。

    有能な結婚カウンセラーなら誰でも、夫が心のうちを妻に明かさないことが、女性の不満の最たるものであることを知っています。
    妻は、夫の考えていること、職場で起きたこと、子どもをどう考えているか、特に自分をどう思っているのかを知りたいのです。
    対照的に、夫はある事柄については話題にしない方が良いのだと感じます。これは妻の典型的な不満の例です。

    自分の悩みを夫に打ち明け、より良いコミュニケーションを計ろうと共に努力するなら、この問題は克服できます。それこそ、結婚生活成功の鍵です。


    ドクター ジェームス・ドブソンのQ&Aから
  • Q. 家内安全や商売繁盛を願う宗教はご利益宗教なのであって、キリスト教はそういうものとは違う、と聞いたことがあります。それでは、自分の幸せを願うことはいけないことなのでしょうか。(四十代、主婦)

    A.  家庭を持ち、大切な子供を育てる責任を持つ親として、健康や経済的安定を願うことは、自然なことであり、当然とも言えます。おそらく、自分の幸せを願わない人などいないとすら言えます。キリスト教はこれらを否定するのでしょうか。

    ◇ キリスト教はご利益宗教?

    キリスト教は聖書のメッセージを土台としていますので、聖書が何といっているかが答えとなります。ところがその聖書は、一方では「自分の命を救おうと思う 者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(マタイ 十六・二十五)とあり、自己否定の道が示されております。しかし他方では「祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」(マタイ二十一・二十 二)ともあります。
    これらのみ言葉は矛盾するように見えますが、どちらも最終的には幸せが与えられるという点で、重なるところがあります。聖書 はある意味で本当の幸せがどこにあるかを伝える書物です。ある敬虔な牧師は、「キリスト教は、究極的には真の意味でのご利益宗教だ」と言いましたが、わた しも同感です。しかし、一般的に考えられているご利益宗教とは、多くの点で異なります。

    ◇ ご利益信仰と人格的信仰

    信 仰者の在り方という側面から比較してみましょう。いわゆるご利益宗教においては、世界の中心に自分がいます。自分にとっての利益を願い、良いと思えない 病、貧困、災害等を避けることを願います。ご利益があるならどの神でも構いません。しかし、聖書は自分を中心とした信仰の在り方そのものに疑問を投げか け、さらに警鐘を鳴らしています。ご利益信仰に潜むこの自己中心性そのものが、実は大きな不幸の第一歩なのです。
    それに対して聖書で伝えられて いる信仰の在り方はよく「人格的信仰」と呼ばれます。それは自分ではなく神を中心としていくことであり、神との人格的信頼関係を人生の軸としていくことな のです。病気や貧困などから守られることも祈ると同時に、そういった苦難を神からの訓練として、受けとめることを学びます。神中心とは自分の利益のために 神を利用するという生き方との決別をいみしています。

    ◇ 真の幸せはどこに?

    幸せを求めることは人間として自然なこと です。しかし、何が本当の幸せなのか、また人生から幸せを奪うものが何か知らないゆえ、多くの人は表面的には豊かになった社会のなかでもがいているので す。ヒルティーは「私は病気で幸福な人をたくさん見てきた。私は貧しくて幸福な人もたくさん見てきた。しかし心が罪で腐っていて幸福な人には会ったことが ない」と言いました。聖書は、罪こそ幸せを奪うものであると教えています。罪とは、神ではなく自分を中心として生きて行くその在り方(Being) を指し、罪の行ない (Doing) はその結果なのです。すなわち、罪を犯すから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。ご利益信仰そのものの内に潜む罪こそ幸せを奪うものなのです。

    何が幸せなのかは人間には分かりません。これが私の幸せだと思ってつかんだとしてもその瞬間に空しく消えていきます。真の幸せは追い求めて掴むものではなく、神の前に罪を悔い改めへり下る時、神がそっと与えて下さるものなのです。


    OMSウエストロサンゼルスホーリネス教会のQ&Aから