テントメーカー(tentmakers)

なぜパウロは天幕を作ったのか?Part 11

投稿者: Administrator on . Posted in テントメーカー Tentmaker

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こんにちの仕事はミニストリーにとって有効なのか?

20年間に渡って、グローバル・オポチュニティーは何百、何千といういろいろな職業について、世界中の約40種類の雇用人から、雇用機会を調べてきました。 GO(グローバル・オポチュニティー)は、献身したクリスチャンが海外でテントメーカーとして仕えるのを助けるために、仕事と宣教の手伝いを行っていま す。ここに最も良く訪ねられる質問のいくつかの答えがあります。(他のGO記事の注釈を見てください。)

それらの仕事は言語や文化を学ぶのに十分長いのですか?最初の契約は1年から3年の間が普通ですが、更新することが出来ます。もしその仕事がほとんど英語で済まされるとしても、人々の信頼を勝 ち取り、注意深く福音を語るために、テントメーカーは彼ら独自の文化に合わせた言語で仕事を出来るようにならなければなりません。彼らはたいてい通常の宣 教師よりもはるかに言語と文化に適応するための努力をします。雇用人はしばしば家族にも言語指導を用意してくれます。文化を勉強する場合、形態的に学ぶほ うが行き当たりばったりにするより早く学ぶことが出来ます。

それらの仕事の契約期間は明らかな働きが出来るほど十分に長いのですか?テントメーカーの仕事はただちに未信者に対する、そして彼らの多くの質問に対する執拗な調査を させるにいたります。すぐに証しが始まります。もし彼らが2年間しか居ることが出来ないのであれば、他のテントメーカーが来て彼らの改宗者や求道者と共に 働きを続けることが出来ます。(テントメーカーのチームはこのことを容易にします。)しかし多くのテントメーカー達は、神が契約更新を備えてくださる限り は、特定の地域やその人々に生涯を捧げています。ほとんどの人は、最初の短期間の滞在の間に長期の献身を決めます。

1年や2年(旅行滞在も含めて)海外にいることによって、クリスチャンは家庭においてより良い証人になり、彼らの教会の宣教部の委員になり、また牧師や神学校の教授よりも宣教に献身したクリスチャンへと変えられます。

給料は生活費に十分なものでしょうか?国外の雇い人が払う給料は適度で十分なものから、多くの特典付きのとても高いものまで様々です。彼らは家族に往復の航 空券をくれたり、時には子供達に私立の学校に行かせてくれたりもします。しかし良い仕事はそれに相応の学問、また経験を要求します。労働許可証はその国の 必要を満たすような専門知識を持った外国人にしか与えられません。

大学で教えることは、テントメーキングにとって最も適した環境のひとつです。しかしパートタイムですので給料は安い場合が多いです。しかし多くの学問機関では、 外国からこの目的のためにお金をもらっているのでよい給料を得ることができます。契約には、教職員は時間の半分を顧問から紹介された追加の仕事をしても良 いということが明記されています。

その地位が何であったとしても、それらの職業は自国を立つ前に、理想を言えばまだ働いている間に準備されている必要があります。海外に到着してから職を探す人というのは、しばしば疑いの目で見 られることになります。なぜ彼らは無職なのか?彼らは自国で働くことが出来なかったのか?彼らは地元の労働者とみなされ、地元の低い賃金で、特典も、飛行 気代も払われません。たいてい彼らはその国を去って、労働許可が下りるまで家族と共に隣国に待機することになります。これはかえってお金がかかります。

多くのクリスチャンは、完全に送り手のサポート体制を整えており、または提示された金額以上のものを望まないので、海外においての給料は低いです。彼らは数 時間英語を教えるだけでまっとうな住家を借りるこが出来たらと望みます。しかし、ただの体裁や宣教の働きのカバーだけのために仕事を利用することは、彼ら の隣人や、同僚以前に、クリスチャンに疑われることになります。彼らは自分自身を仕事を持った秘密の宣教師だと考えます。彼らは秘密を持った気持ちでその 国に入り、何をしてもその気持ちが現れます。そしていていたる所で疑いを引き起こしていくのです。彼らは信頼性を犠牲にしているのです。テントメーキング とは、伝道をするにあたってその仕事が不可欠であるユニークな宣教のアプローチです。多くの宣教のリーダー達は、彼ら自身が職場での伝道の経験が無いた め、パウロがした仕事と証しの統合を適応することをほとんどしません。

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良くある質問と答え

  • 子育て

    Q 家族のことを考えたら、忙しすぎることがよくないことは分かります。でも、私たちの教会は平日もほとんど毎晩何かの活動をしています。夫も私もそのうちの 多くの働きのリーダーシップを取るように頼まれたり、または期待されます。 正直に言って、牧師から依頼されたことを断わると、罪意識を覚えます。結果的に、家族の時間はなくなってしまいます。この矛盾をどうしたら解決できるで しょう。

    A そのジレンマは私にも分かります。私ども夫婦も、結婚して最初の10年間は同じ葛藤を経験しました。
    まだ若かった私は、当時教会から頼まれることは何でも引き受ける義務があるかのように感じました。教会学校の校長、成人クラスの教師、教会の役員などを務 め、その他、何か特別な必要がある時は何でも引き受けていました。妻も、子供聖歌隊の指導、婦人会の役員など教会活動に深く関わっていました。私は博士過 程の最終段階にあり、仕事面での責任も膨大でした。息もつけない状態で、家には私と遊びたい盛りの娘がいるのに、ある時は17日間も夜の会合が続いたこと を思い出します。

    それ自体は重要な仕事であっても、それを引き受けるには判断力と常識とを働かせるようにと、主は私に望んでおられることが少しずつ分かってきました。一人 の人間ができることには当然限界があります。クリスチャンとしての義務、仕事、レクリエーション、社会的責任そして意味ある家庭生活などをバランスよく計 画する必要があることが分かりました。この問題を整理するのに役立った聖書のことばは以下の二つです。

    第一は、マタイの福音書14章13~14節にあります。「イエスはこのこと(バプテスマのヨハネの死)を聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所 に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれん で、彼らの病気を直された。」

    この時、イエスはいとこであり友であるバプテスマのヨハネの死をいたみ悲しんでいたに違いありません。「自分だけで寂しい所に」行く必要があったのです。 それでも群衆は主の居場所を知り、いやしの御手を求めて来たのです。喪中であっても、イエスは人々をあわれみ、その必要を満たされました。このことから私 の出した結論は、私たちも困難や不都合にめげず自分を犠牲にするべき時があるということです。また別の時には何千もの人々がいやしを求めてイエスに押し寄 せました。みことばを語られた後、主は弟子たちと舟に乗り込み、その場を去りました。マルコの福音書4章36節によれば「弟子たちは、群衆をあとに残し、 舟にのっておられるままで、イエスをお連れした。」疑いなく、その日の群衆には癌、盲目、身体の障害、その他あらゆる不幸を背負った人々がいたはずです。 主は彼らすべてをいやすために徹夜することもできたでしょうが、明らかに体力の限界に達して、休む必要を感じたのです。主と弟子たちが湖にこぎ出したと き、病人たちを岸辺に置き去りにしたのです。似たような出来事がマタイの福音書14章23節にも記されています。「群衆を帰したあとで、祈るために、ひと りで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」自分を与えるべき時もあれば、なすべき大切な仕事はあっても、一人になり、祈り、日 常の雑事から逃れるべき時があります。

    イエスのしたような休憩とリフレッシュの時を確保しない人は、やりたいこともうまく進まないようになります。例えて言うなら、庭のスプリンクラーの蛇口を 多く作りすぎたようなものです。どの蛇口からも不十分な水量しか出ません。もうひとつの例をあげましょう。ぶどうを栽培する人は、枯れ枝を刈り込むだけで はなく、実のなる枝さえいくらかは刈り取ることをご存じですか。収穫量をいくらか犠牲にしても、質の良いぶどうを得ようとするのです。同じように、私たち も休みなく動き回ることをやめて、働きの全体的な質を良くするようにすべきです。

    他にもうひとつ、気をつけるべきことがあります。バランスを維持すべきだといって、教会内での責任を避ける言い訳にするべきではありません。牧師たちは 「大部分の奉仕がほんの数人の肩に負わされ、他の人は何もしようとしない。」と嘆きます。これでは困ります。ひとつの極端から、反対の極端に飛躍しないよ うに、常識を働かせましょう。

    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • Q 妻も私も引退の年に近づいています。私たちは経済的には大変祝福されてきました。いくつかの大きな会社とかなりの不動産を三人の子どもたちに残すことにな ります。多額の財産を次世代に残すことについてはどうお考えになりますか。気をつけるべき点は何でしょうか。

    A この話についての私の意見は、耳ざわりかも知れませんが、自分が観察したところと私が固く信じるところを申し上げる以外にありません。端的に言って、労さずに大金を手にすることはとても危険なことです。

    「裕 福な子供たち」と題した社会学上の研究結果がしばらく前に発表されましたが、私の懸念を裏書きするものでした。著者たちは、「多額の信託財産は通常相続者 の破滅の元である」という結論を得ました。引用された事例は説得力のあるものでした。人類史もお金の危険について証しています。男も女も金をむさぼり、殺 人を犯し、命を落としまた「永遠の命」を失いました。お金は友情を引き裂き、おごる者や力ある者は倒れました。そして数え切れぬ家庭が無残に崩壊しまし た。

    またお金ほど兄弟の仲を引き裂くものもありません。莫大な財産を相続することにより家族の中に緊張と不調和が生まれる確率は高まります。お子さんたちはあなたが残された会社をめぐって争い、決定権を委ねられた人を恨むでしょう。

    責 任ある生活をする意欲を失い、お酒やギャンブルなどの中毒症状に陥る人も出ます。このような否定的結果にはもちろん例外もあり、富と権力を上手に取り扱う 人々もいます。しかし、これはよく行っても困難な仕事で、最高度の成熟と自制心とが要求されます。「私が子孫に残す多大な財産は、愛する者たちに及ぼす危 険に見合っているだろうか」と自問すべきです。

    あなたご自身が成功するために勤勉に働き、節約し、貯蓄し、築き、額に汗して生産に従事したという 苦労を、お子さん方には味わわせたくないのかどうかをまず決めなければなりません。彼らが自分を鍛練し勤勉に働くという必要を感じず、出来合いの事業を引 き継いでその処置を誤り、乱費してしまうとしたらどうでしょう。

    私の見解が人気のあるものではないことは承知しています。人々が懸命に働く理由の 一つは、子どもたちに苦労させたくないからです。子どもを愛する余り、安楽な人生を歩ませようとします。それに、一生をつぎ込んで発展させたビジネスと築 いた富を売り飛ばして自分は消え去るというのは、どんな親にとっても愉快な選択ではないでしょう。もちろん、自分の財産をどうするかは、親が自分で決めね ばなりません。私にできるのは、ただ自分の見た通りの事実をお知らせすることです。

    私の経験では、富の相続は家族関係、自制心、信仰心また責任ある社会人としての生き方を危うくする傾向があるということです。もし相続させるなら十分に注意をし、何年もかけて準備し、祈り深くなすべきです。

    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A

  • Q. 三位一体とは何ですか。キリスト教は唯一の神ではないのですか。

    A. 今も教会の「神認識」を根幹をなす、最も重要な教理です。 万物の造り主である父なる神と、子なる神であるわたしたちの救い主イエス・キリスト、そして今も共にいる慰め主なる聖霊はそれぞれ固有の人格(ペルソナ) であり、共に交わり、一つとなっている、ということです。これは神を分析した結果 、判ったものではなく、聖霊と聖書に導かれた教会が信仰の告白として言い表したものであり、わたしたちはその信仰を受け継いでいます。
  • Q 女性が、妻(母)となることを人生の目標とすることはおかしなことですか。何か他に目標がなくてはいけませんか。

    A  全くおかしくありません。母親としての仕事は立派な仕事であり、何も恥じる必要はありません。若い女性たちが主婦となることを目指すと言っただけで、愚か者扱いされるようになったのは、ほんのここ数十年のことです。

    ある大学4年の女子生徒が卒業後のことについて相談に来たことを思い出します。様々な仕事の可能性や更に学びを続けることについても話し合いました。
    それから彼女はひと呼吸おいて、後ろをうかがってから身を乗り出し、ほとんど聞き取れない程の声で言いました。

    「本当のことを言ってもいいですか。」
    「もちろん。他に誰も聞いてはいませんよ。」
    彼女は低い声で続けました。「本当はね、仕事なんか持ちたくないの。結婚して子どもを育てるのが私の望みなの。」
    私は答えました。「何か秘密のように話さなくちゃならないことかい。君の人生じゃないか。誰に遠慮することもないよ。」
    「冗談言わないで下さい。この学校の教授や友達に聞かれたら、うわさの種にされてここにいられなくなってしまうわ。」

    信 じがたいことですが、今や子どもを産んでから数年を育児に専念することが当り前ではない時代になってしまいました。この風潮は、女性蔑視であり愚かなこと です。神を愛し、この世に貢献し役立つ子どもを育てることほど大切な仕事がこの世にあるでしょうか。何世紀もの間大切な働きとされてきた家事や育児を女性 たちが恥じるようになったことは残念至極です。

    もちろん、すべての女性が妻や母になるわけではありません。仕事にのみ生きる女性もいるで しょう。結婚するつもりのない人もいます。それはそれでいいのです。しかし、専業の母親となることを望む人がそれを公言することを(それも大学の構内で) 恥じる必要などどこにもありません。


    From ドクター ジェームス・ドブソンのQ&A